正義考

少し前の話になるが,正義について考える本がベストセラーになったことがある。

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

 元来,人の生命は換価可能な場合があったし,奴隷と自由市民について書いたハンムラビ法典の一節を例に挙げるまでもなく,人の生命の価値には差があることもあった。

全ての人の生命が等しく貴いと考えられるようになったのはそう古い話ではないし,現在でも,全ての人の生命が等しく貴いという認識は絶対のものではない。

 

例えば,こんな話を考えてみよう。

あなたは,電車を運転しており,目の前の線路には人がいる。ブレーキをかけても絶対に間に合わない。ただ,その人の手前に線路の切り替えポイントがあり,あなたはそれを切り替えることができる。ただ,切り替えた先の線路にも人がおり,これもブレーキは絶対に間に合わない。

これは,マイケル・サンデルが挙げた事例と同じようだが,決定的な違いがある。

 

目の前の線路にいる人は,あなたの1番大切に思う人である。家族,友人…

切り替えた先にいる人は,大量殺人事件を起こし,死刑判決を受けた死刑囚である。

 

 

さあ,あなたにとって,社会にとって,その価値は等しいであろうか。

当然,前提として全ての人の生命は等しく貴いのであるから,答えはイエスである。

死刑囚は,適切な手続によって刑が執行されるのでなければ,殺される筋合いはない。

 

そもそも,正義というのは,法律や慣習,その他の人々の共同認識に支えられたものであることが多い。

それでも人のモノを盗んではいけないということは割と意識しやすいが,例えば,道端でキャバクラの客引きと居酒屋の客引きをすることはどうだろう。

 

また,人のモノを盗むというのも考え出すと難しい。

無人島で狩猟採集で生活していた人がいたとしよう。その人が,文明社会に連れてこられ,八百屋の店頭においてあるバナナを見つけた。その人が果たして盗んではいけないと思うだろうか。彼がそもそも島の木になっているバナナを取ってはいけないとは思っていないはずである。もちろん,まだ十分に成熟していないバナナを取ってはいけないと思っているかもしれないが。

 

 

こういった罪についての意識,というのは,人が共同で生活していく上で生み出した共同認識にすぎないのである。それは,共同幻想といってもいい。

ヒトが何百万人も何千万人もの単位で共同生活を送るようになったのは,それほど古い話ではない。そしておそらく共同幻想を作り出さなければ,こういった単位で生活していくのは困難なはずである。

だからこそ,共同幻想を共にしない同士では,正義と正義のぶつかり合いが生まれてしまう。

 

私は,正義という共同幻想に意味がないとは全く思っていない。

むしろ,昔よりももっと大きな共同幻想が必要だと思っている。

正義と正義がぶつかり合って,人の貴い生命が失われることがなくなるように。